―これは仏像ですか?
聖観音像です。
聖観音とは観世音菩薩のことで、人々の苦悩等に耳を傾け、即座に救ってくれる仏です。
菩薩ですので、装身具などを身に着けていますが、冠などは失われています。
仏像の種類については18回を参照してください。
―どれくらいの大きさですか?
像の高さは35~40㎝程度です。
台座が入って50㎝程になります。
―意外と小さいですね。何でできていますか?
木彫です。素材となっている木の種類は明らかになっていませんが、針葉樹と思われます。
小さい像ですが、肩から先、足先は別材です。
鼻、足先、腕など黒く見える部分は、後に修理され作り直されている場合があります。
台座も別材です。
―いつ誰が作ったものですか?
作者はわかりませんが、複数の仏師によって作られたと思われます。
平安時代12世紀頃に作られたと考えられています。
―確かにそれぞれ顔もプロポーションも違います。
ふくよかなプロポーションのもの、細身のものなどさまざまです。
―彩色があるのですか?
金色の他、朱、緑などの色が残っています。
体を漆箔(しっぱく 漆を塗った上に金箔などを貼る技法)で仕上げたことが分かる像もあります。
白い色は下地の色と思われます。
―千体仏とありますが、本当に1000体あるのですか?
今は1000体残っているわけではありません。作られた当時、本当に1000体であったかどうかもわかりません。
ただ、1000体をひとつのセットとして作る例はあり、現存するものでは京都の三十三間堂のものがあります。
―藤田美術館には何体あるのですか?
50体あります。
―他に所蔵しているところはあるのですか?
奈良のお寺に20体とまとまってあるようです。他は1~数体ずつが各所に所蔵されており、実際に何体残っているか明らかではありません。
―千体というのは何か意味があるのですか?
仏教に千仏という思想があります。過去現在未来にそれぞれ千の仏が出現するというものです。
古くから千体の仏が、彫刻や絵画で作られてきましたが、平安時代頃から阿弥陀信仰や観音信仰との関わりから、1000体の阿弥陀や観音が作られるようになりました。
―どこにあったものですか?
通称「興福寺千体仏」といい、奈良の興福寺に伝来したものと伝わっています。
興福寺北円堂にあった千体仏の一部ではないかとも考えられています。
―興福寺はどんなお寺ですか?
天智8(669)年に造営された山階寺が前身で、飛鳥を経て、和銅3(710)年、平城遷都の際に藤原不比等によって現在の地(奈良市)に移され、興福寺と名付けられました。藤原氏の氏寺として繁栄し、その後、幕末まで存続しました。明治政府による神仏分離令や廃仏毀釈などにより、苦境に立たされましたが、その後、復興した法相宗の大本山です。
―法相宗というのは?
玄奘三蔵(第1回参照)が法相宗の宗祖と位置付けられています。
仏教伝来の初期、飛鳥時代に中国から伝えられた宗派のひとつです。
―なぜ、興福寺から藤田家に伝わったのですか?
明治時代に興福寺が寺を運営していくための資金を得るために、破損仏を売却しました。その際、一括して益田鈍翁(どんのう)が購入し、その一部を藤田傳三郎が入手したと伝わっています。
明治39年に破損仏が売却されたことはわかっていますが、千体仏全てが同時期であったかについては、分かっていません。複数回、興福寺から仏像等が流出したのではないかと考えられています。
―益田鈍翁はどんな人ですか?
三井物産を設立した益田孝(1848〜1938)です。後年、鈍翁と名乗り、近代の代表的な茶人のひとりとなりました。
―一言でいうと?
50㎝程度の小像ですが、平安時代らしい雰囲気を持っています。それぞれに個性があり、見ていて飽きない像です。
今回の作品: 千体聖観音菩薩立像(せんたいしょうかんのんぼさつりゅうぞう)
時代:平安時代 12世紀
「興福寺千体仏」とも呼ばれる木彫の仏像で、当館では50体を所蔵しています。千体仏の造立は、功徳を積むため平安時代末頃に流行しました。一体ずつ異なる容姿や彫り方などから、複数の仏師によってつくられたことが分かります。小振りながらも穏やかな表情などは、優美な雰囲気を醸す平安時代らしい仏像です。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。