―これは何に使うものですか?
花入です。花を入れて飾るための容器です。
―いつのものですか?
桃山時代です。
天正18 (1590)年と伝えられています。
―何でできていますか?
竹です。
伊豆半島(静岡県)の韮山(にらやま)に生えていた竹と伝えられています。
―作った人は誰ですか?
千利休(1522~1591)です。
―千利休は茶人だと思うのですが、花入を作ったりするのですか?
はい、作ります。
竹を素材とした、花入や茶杓などの茶道具を自ら作る他、好みのデザインで様々な茶道具を作らせることもあります。
―竹で作った花入はいつからあるのですか?
この花入は、利休が天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原(神奈川県)の北条氏を攻めた小田原攻めに随行した時、韮山の竹を使って3つの花入、よなが、尺八、園城寺を作ったという伝説があります。この後、茶の湯で竹の花入が使われるようになったことから、利休が竹の花入を創造したと言われるようになりました。実際には、利休以前にも竹で作られた花入は存在したと考えられています。
―花を入れる筒が2つあります。
このように花を入れる容器が2つ付いている形を二重切と呼び、利休が考案した形と言われています。
今でも同じ形の新しい花入が作られています。
―両方に花を入れるのですか?
下段にしか入れない場合や、両方に入れる場合もあるようです。
―どこにどのように飾りますか?
この花入は節が底から飛び出しているため置くことができません。床の間の壁に打った釘に掛けます。
―花入の裏側に書いてあるものは何ですか?
上に「よなか」と銘が書いてあり、下に利休のサイン(花押 かおう)があります。
昔は濁点を書かないので、「よなか」と表記されています。
―銘(めい)の「よなが」とはどういう意味ですか?
銘とは物につけられた名前で、ニックネームのようなものです。
「よなが」は竹の節と節の間を「よ」といい、節と節の間が長いから、「よ」が「長い」の意味で「よなが」となったという説があります。
また、小田原攻めの合戦の陣中で、兵士が竹を枕にして眠ったということから、「よなが」を「夜長」とも書く場合があります。
―約400年前に作られてから、誰が持っていたのですか?
1691年に没した表千家の5代目家元、随流斎(ずいりゅうさい)が花入を人に譲った手紙があります。宛名はありませんが、薩摩屋宗朴という人かもしれません。
明治時代には藤田家が所蔵していましたが、いつ、誰からなど詳しいことは分かりません。
―一言で言うと?
自然の竹の一部を切り取っただけですが、材料をよく選び、絶妙な寸法で作られており、バランスよく美しく見えます。
また、千利休が作ったと伝わっていることが重要です。たくさんある同じ形の花入の中で、最初に作られたものと考えられているので、歴史的にとても貴重です。
―千利休はやはりすごい人なのでしょうか?
利休の茶の湯を継承する子孫がいて、現在までつながっています。
利休の孫、千宗旦が侘び茶の普及に努め、3人の息子を紀州徳川家、加賀前田家、讃州松平家に茶道指南として仕官させ、それぞれ表千家、裏千家、武者小路千家をおこし、現在も続く三千家の礎が築かれました。
今回の作品:二重切竹花入 銘 よなが(にじゅうぎりたけはないれ めい よなが)
時代 桃山時代 16世紀
天正18(1590)年、利休が秀吉の小田原攻めに従った際、竹を切って3つの花入れ「よなが」「園城寺」「尺八」を作ったと伝えられています。「よなが」の「よ」は節のことで、竹の節と節の間が長くあいているためとも、陣中で兵士が竹を枕に眠っていたためともいわれています。背面には「よなが」の文字と利休花押が朱漆で記されています。宗旦四天王のひとり、藤村庸軒の写した花入が添っています。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。