―これは何ですか?
硯箱です。
硯、墨、筆、水注(すいちゅう・墨を磨る際に使う水を入れる入れ物)など、書道に必要な道具一式を収めます。
今でいう筆箱と同じようなもので筆記用具を入れるものです。
―実際に入っているのですか?
硯、墨、筆、水注、刀子(とうす・紙を切る道具)が入っています。箱ができた当初からのセットではなく、途中で変更されている可能性があります。
水注は円形で、虫や萩があしらわれています。刀子には「埋忠作」と銘があります。硯石の左右には細長い掛子(かけご・縁にかけて中にはまるように作った箱)があります。
―誰が作りましたか?
作者は分かっていません。一人が作るのではなく工房制作と思われますが、どのような所で作られたかは明らかではありません。
―いつ作られたものですか?
室町時代です。
足利将軍家が支配していた時代ですが、武家も貴族化されてきていました。
―貴族化というのは?
足利氏はもともと武士ですが、京都に幕府を開き、貴族と関係を結び、貴族らしい教養を積極的に身につけていました。
―足利氏を始めとする武家は努力されていたのですね。
そうですね。和歌を詠み、漢詩を読み、中国から輸入する絵画や陶磁器などの唐物も取り入れるなど、新しい文化も生まれました。
また室町時代は平安時代などの王朝文化に憧れ、王朝復古を目指す動きがあり、古歌をモチーフにした硯箱などが作られました。
―モチーフにするというのは、歌が書かれていなくても元の歌を連想させるデザインとい
うことですね。この作品も和歌がベースになっているのですか?
文字が全くないものもありますが、この作品は文字が少しだけ入っています。
蓋の表に「君・賀・千・と・せ」とあります。
この歌は、『古今和歌集』巻七に載る紀貫之の和歌で、
「春くれば 宿にまず咲く梅の花 君が千歳のかざしとぞみる」
が表現されています。
―どんな意味ですか?
本康親王(?~902 もとやすしんのう 任明天皇の第5皇子)が70歳を迎えた年賀の宴で、紀貫之が歌を詠み、屏風に書き付けた和歌であると、詞書(前書き)にあります。
「春(新年)が来れば、宿(家)の庭に最初に咲く梅は、あなた様の七十の賀の冠に挿す飾りのように見えるものです」という意味です。
硯箱の蓋の表にある建物、塀、庭は「宿(家)」、花の咲く梅の木は「梅の花」を示しています。梅の木の枝の間に「君・賀」の2文字、岩に「千・と・せ」の3文字があります。飛んでいる鳥は鶯と思われます。
―硯箱の中にも模様があるのですか?
蓋の裏側、箱の中などにも、梅の花や花びらが散るように表現されています。
―何でできていますか?
木製です。木で作った箱の上に蒔絵(まきえ)で装飾しています。
角のある直線的な箱で、厚みもあまりなく薄い印象を受けます。
―確かに厚みがあまりないようです。大きさはどのくらいですか?
縦が22.7㎝、横が20.9㎝、厚みは4.2㎝です。
―蒔絵とはどんな技法ですか?
蒔絵は日本で独自に発展した漆の装飾技法です。
装飾する面に接着剤となる漆で絵を描き、それが乾かないうちに金属粉(ふん)を蒔くことで模様を表します。金属の色、粉の大きさや形などを変えることで、幅広い表現ができます。
―金色や赤っぽい色などがありますが、何が違うのですか?
使われている金紛の種類や、蒔絵の技法が異なります。研出(とぎだし)蒔絵、高(たか)蒔絵、金貝(かながい)、梨子地(なしじ)などです。
―いろいろ使われているのですね。それぞれどんな技法ですか?
地面や建物は金粉を蒔いた上から漆を塗りかぶせ、乾燥後に漆の表面を研磨して模様を出す研出蒔絵です。
鶯は漆を盛り上げ、その上に蒔絵を施す高蒔絵です。
梅の花や文字は金銀の薄い板を貼り付ける金貝です。
空の部分は梨子地で、薄く平たい形の金紛を荒く蒔いています。名前の由来は、梨の実の表面のように見えるからと言われています。一口に金といっても、赤味の強い金など、何色かの金の紛を使っています。
内側は金紛を密にびっしりと蒔く沃懸地(いかけじ)が使われています。
―落ち着いた色ですね。
江戸時代の蒔絵に比べると確かに落ち着いた色です。
―誰が持っていたとか、伝来はあるのですか?
銀閣寺を建てた室町幕府8代将軍、足利義政(1436~1490)の持っていた有名な5つの硯箱のうちのひとつ「千歳」ではないかといわれています。
他の4つは男山、三笠山、春日山、隅田川です。
―一言でいうと
岩や樹木の中に文字を隠す「芦手(あしで)」の一種を用いて、和歌から象徴的な文字を取り出してちりばめ、歌われたモチーフも併せて表現した硯箱です。
今回の作品: 千歳蒔絵硯箱 銘 君が千歳(ちとせまきえすずりばこ きみがちとせ)
時代 室町時代 15世紀
『古今和歌集』巻第七賀歌に載る、紀貫之の歌
本康親王の七十賀の後ろの屏風に詠みて書きける
「春くれば 宿にまず咲く梅の花 君が千歳のかざしとぞみる」
を題材としてデザインされた硯箱です。黒漆塗りを地として、金の研出蒔絵や高蒔絵、銀の金貝などを用いて、歌に詠まれた宿(家)や梅、詠み込まれた5つの文字を表しています。箱の中には、墨、硯、筆、刀子、水注が収められ、硯の左右にはこれらを収める懸子がつけられています。15世紀に流行していた蒔絵表現よりもひと時代前の技法が用いられているため、古風な雰囲気があります。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。