―これは何ですか?
絵巻です。
文章とそれに対応する絵で1セット(1段)になっていて、それが繰り返されています。基本的に絵巻は文字から始まり、その文章に対して絵が来ます。文章が長い場合は、その中から印象に残る場面をひとつ描くか、いくつかの場面を連続して描きます。
絵巻は絵本を横に長くつないだようなもので、物語やお経などを題材に多くの作品が作られました。紙を長くつないだ巻物という形態は、奈良時代までに大陸から伝わったと言われ、絵巻は日本で発生、発達しました。
日本に現存する最古の絵巻は平安時代末の源氏物語絵巻です。
―何でできていますか?
紙を長くつないだ巻子です。
あまり紙が長くなると、太くなったり、重くなったりして扱いにくいので、適当な長さに調整して作ります。
つなげた紙の末端に軸木を取り付け、軸木を芯にして紙を巻きます。
最も外側に美しい布を貼った表紙を貼り合せ、最後に開かない様に紐を掛けて縛ります。
―大きさはどれくらいですか?
縦21㎝、長さ448. 8㎝です。
―縦はA4の短辺ぐらいですね。絵巻としては小さい方ですか?
そうですね、小さい方です。以前にご紹介した玄奘三蔵絵は紙の縦が40㎝近くあります。
―これはどこかに飾ってあったのですか?
絵巻は基本的に飾らず、物語として読むものです。
―内容は何ですか?
平安時代に実在した女性、紫式部の書いた日記「紫式部日記」です。
―紫式部とはどんな人ですか?
生没年は分かっていませんが、西暦900年代の終わりごろ誕生したと思われます。
1005年頃に藤原道長(966~1027)に才能を認められ、道長の娘で一条天皇の后である中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)に仕えました。藤原道長とも仲が良かったと伝わっています。『源氏物語』の作者として有名です。
―宮中ではどんなことをしていたのでしょう?
この時は、一条天皇の后に、定子と彰子のふたりが並び立つ状態で、両方の后を中心に、それぞれ華やかなサロンのような場が形成されました。天皇がより足しげく通うように、和歌が詠めるなど教養のある有能な女性を揃えました。
一条天皇のもう一人の后、定子に仕えた女性に『枕草子』を書いた清少納言がいます。
―『源氏物語』を書いたということは、その中でも紫式部は才女だったのでしょうか?
そうですね。漢文も読みこなし、歌人としても知られています。幼少の頃から才能を発揮していたようで、弟が漢文の勉強をしていた横で一緒に聞いていた紫式部が理解してしまうので、父親が逆だったらよかったと残念がったという逸話があります。
―貴族は読み書きができたのでしょうか?
できます。漢字は男の文字と言われますが、正式な文書や公の記録は漢文でした。
紫式部の頃は、物語や和歌、手紙などに女手と呼ばれた仮名が使われていました。
―仮名は正式な文字ではなかったということですか?
そうですね。プライベートなもので正式の文書には使いません。
―紫式部日記にはどんなことが書いてあるのでしょう?
きらびやかな宮中での仕事のあれこれや回想や随想です。
紫式部の書いた原本は残っていませんが、後の時代の人が書き写した写本が残っています。今でいう日記とエッセイの混じったような形式です。
現在、現代語訳のついた文庫本もありますので、簡単に読むことができます。
―紫式部というのはペンネームですか?
式部は女房の呼び名で、父親の官職から取られた名前です。
紫は「源氏物語」の若紫から取られたとか、没後の呼び名とか、様々な説があります。通り名です。一般的には本人の名前というよりは、父親の名前や名字から一文字とったりしていたようです。
紫式部も藤原姓であったことから、藤式部と呼ばれたようです。同じ時代の人に清少納言がいますが、清は個人を指して(清原氏)少納言は男の親族がついていた役職と考えられています。
―この絵巻が作られたのはいつごろですか?
鎌倉時代、13世紀前半に作られたと思われます。
紫式部は10世紀末から11世紀初頭の人ですので、200年ほど後になります。
鎌倉時代と考えられる理由は、絵の様式と文字の形、紙の装飾などです。
―200年も経ってから、なぜ作られたのでしょう?
作られた経緯はわかっていませんが、いくつか説があります。
鎌倉時代、藤原道長の子孫が、娘を天皇の后としました。世継ぎを産んだことから、先祖の栄光を追慕し、王子誕生の祝賀を込めて作られたのではないかという説です。
―絵巻はもともと何巻あったのでしょうか?
残っている日記を全て絵巻にすると、全10巻くらいになると予測されています。
藤田美術館にあるのは1巻ですが、本来の1巻よりもさらに短い1巻です。詞が5段、絵が5段あります。
―他の絵巻はどうなったのですか?
現在、短くなってしまった絵巻が他に3巻。その他、詞と絵のセット(掛軸)が2本あるだけです。それらは、他の美術館や博物館などが所蔵しています。
国宝は五島美術館と藤田美術館にあるものですが、絵巻の姿として見られるのは藤田美術館だけです。
絵巻は貼り合せた紙の糊を剥したり、切り取られたりすることが多く、作られた時のままであることの方が珍しいのです。
―絵を描いたのは誰ですか?文字を書いたのは誰ですか?
絵も文字も誰が描いた(書いた)か分かっていません。
絵は宮廷絵師が関わったのではないかと考えられています。
文字は、筆跡からひとりで書いたと考えられています。後京極流という書の様式で、漢字仮名交じり文です。文字を記した紙は金や銀の箔などを使って美しく装飾されています。
―絵巻の内容は?
寛弘5年(1008)9月15日から10月16日までの部分です。
道長の孫、敦成(あつひら)親王誕生後の日々について書かれています。
―1段目は?
親王誕生を祝う、誕生第5夜の祝宴後に列席者が帰る様子を描いています。肩から掛けている茶色っぽい布が引き出物です。かがり火がたかれており、夜であることが分かります。
―2段目は?
9月16日夜、道長邸の庭にある池に船を浮かべて遊ぶ、公達と女房の場面です。中宮彰子はお産のため、実家である道長邸に逗留しています。船で遊ぶ女房は、彰子附きの若い女房たちです。今夜は十六夜の月が美しく輝き、生い茂る秋草を照らしています。
―3段目は?
9月16日で2段目の続きです。
道長邸北門に牛車が2台止まっています。宮中の女房たちが、前触れなく突然お祝いに駆けつけたのです。舟遊びをしていた女房たちは、あわてて邸内へ戻りました。黒に白い模様の入った特徴ある牛や牛飼童が、小さな画面にバランスのよい構成で描かれています。
―4段目は?
9月17日部屋の中の様子で、寝ている女性が出産後の中宮彰子、その前に座る後ろ向きの女性が紫式部です。御帳台(みちょうだい)という寝所で眠る中宮の美しく清らかな様子を描いています。女房たちの衣装や調度品など白色で統一されていますが、銀で文様が細かく入れられています。白い絵の具や銀は酸化し変色しています。
―5段目は?
10月16日建物の簀子(すのこ 縁側)に立つ男性が藤原道長です。庭の池に浮かべた2艘の船を見ています。船には楽人が乗っています。一条天皇が今日、わが子と妻に会いに道長邸に行幸(ぎょうこう)されるため、饗応の準備が行われています。道長は、楽人と船の仕上がりを確認しています。
実は、5段の詞書の次にもともと絵1段と詞1段がありました。このうち詞書1段は、関東大震災で焼失しました。
―最も有名な絵はどれですか?
5段です。藤原道長を個人として描く作例は、この紫式部日記絵詞に登場する道長が最古です。社会や歴史の教科書に載る道長像として最も良く知られています。
―道長が生きている時代に描かれた肖像画のようなものはなかったのですか?
平安時代は、顔をリアルに描かせることはありませんでした。呪詛の対象になったからとも考えられています。
―そうなんですね。
平安時代末に作られた「源氏物語絵巻」を見ると、貴族の顔は引目鉤鼻(ひきめかぎばな)で描かれています。細い線で目を引き、かぎ状の鼻を描きました。
―美人の表現ではないのですか?
描き方の一つです。個人を描かないので特徴を捉えないのです。
平安時代の終わり頃から似絵(にせえ)と呼ばれる写実的な顔の表現が出てきてきます。
―平安時代の絵巻は引目鉤鼻なんですね?
上流階級はそうです。庶民の表現はそんなことはなくて、「信貴山縁起絵巻」を見ると特徴をとらえた顔の表現が見られます。
―他に見所はありますか?
2段と4段の絵です。女性がたくさん描かれていて、十二単とか綺麗な色の衣装を着ているはずなのに、色のない衣装を着ています。
中宮彰子に皇子が生まれてすぐの頃を描いていますが、昔は出産の時、全員白い衣装を着、白い調度品を使うことが習わしとなっており、それを表現しています。白を用いるのは、出産は死と隣り合わせであり、また、産褥を一種の穢れととらえる、魔除けになるなど、様々な理由が考えられます。
ただ、宮中の人々の衣装なので、ただの白でなく、銀糸を使って模様を縫いこむなど贅が尽くされていることが、紫式部日記に記されてます。
―描かれた直後はどんな風に見えたのでしょう?
今は濁って見えますが、できあがった時は白銀だったはずです。
絵の具の成分を分析してはいませんが、絵の具の鉛が酸化し、現在は薄い紫色に見えているものと思われます。
―藤田美術館以前はどこにありましたか?
大正7年に藤田平太郎が上州(現在の群馬県)館林(たてばやし)藩主秋元家の売立で落札しました。秋元家以前は後水尾天皇ともいわれているようですが、はっきりしたことは分かっていません。
今回の作品: 国宝 紫式部日記絵詞 (むらさきしきぶにっきえことば)
時代 鎌倉時代 13世紀
良質の絵具や材料、丁寧な制作など、平安時代の雰囲気を残す美しい作品です。紫式部や藤原道長など著名な人々が多く関わっていることなど、見た目や内容が分かりやすいのも特徴です。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。