―こういうものは何を見たらいいのか・・・
これは掛軸ですか?
はい、掛軸です。文字と絵が墨で紙に書かれています。
―ずいぶん大きく見えます。絵の上に色々な人の字が書かれていますね。
ハンコも沢山見えます。
縦129×横31㎝です。縦長の作品です。
このような作品を詩画軸(しがじく)といいます。
―詩画軸とは何ですか?
絵と複数の漢詩の両方が書かれているものです。絵と詩が密接に連携しています。
―いつ頃のものですか?
室町時代、特に応永(おうえい)年間(1394〜1428)に盛んに作られました。「応永詩画軸」とも呼ばれています。
―それは・・・?
例えば、応永4年(1397年)には金閣寺が創建されています。
―絵に文字が記されたものは、室町時代でなくてもあると思うのですが、何か違うのですか?
絵と文字がセットになっている作品は、平安時代にも現代にもあります。
でも、絵と文章の内容が密接に連携し、同じテーマで表現されているものが、詩画軸です。
「詩画一致」といい、絵と詩が一体化したものです。
―複数の漢詩と絵はどのように書かれるのでしょう?
禅僧らが開いた詩会などに集まった僧たちが、同一テーマのもとで詩と絵を作ります。
―知り合い同士で書いているということですか?
仲間内のプライベートな感じで作られていたと思います。
同じ寺だけでなくいくつかの寺の僧が集まって作ることもあったようです。
―柴門新月って?
作られた時から付けられている、この作品の名前です。
作品の一番上に「柴門新月の図に題して、南鄰の故友に寄する詩の序」という題名で始まる序文があります。序文の5~6行目のところです。序文にはこの作品の題名「柴門新月の図」と作品を作ることになった経緯が書かれています。
―それはどんな経緯ですか?
中国唐時代の詩人、杜甫(とほ)の「南鄰」という漢詩を題材に、南禅寺にいた美男子で学問も優れた南渓という友に贈るために、南禅寺の僧たちが絵と詩を一緒に表すとされています。
送別をテーマにした、一種の寄せ書きのようなものです。
―何人が詩を書いたのですか?
漢詩は全部で18首あり、18人の南禅寺の禅僧が読み、記しました。自筆で署名、捺印もしています。ただし、捺印のないものが3首あります。
―集まって作られたのですか?
記録などはなく、具体的には分かっていませんが、18人の禅僧が集まり、詩会を開いて制作したのではないかと考えられています。
―作られたのはいつですか?
序文の最後に記された言葉より、応永12年(1504年)であることがわかっています。
制作年の記された詩画軸の中で、最も古い作品です。
―18人全員の経歴はわかるのですか?
わからない人もいますが、全員が南禅寺に関係する禅僧です。
南禅寺であることがわかる理由は、序文の中の「龍門諸公」という言葉です。
南禅寺は山号を「瑞龍山」と言います。
18人の名前は
玉泉玄瑛 大因良由 太白真玄 玉畹梵芳 中覚 大顕
若渓桂明 若陽聖深 古標大秀 中昊 元璞慧久 謙恕
志詢 全材 水西見松 抱節中孫 慶年永賀 惟肖得巌 です。
―序文を書いたのは誰ですか?
臨済宗の禅僧、玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう)で、建仁寺、南禅寺の住持(じゅうじ)となりました。18人の中で長老と言える立場です。
詩を書く位置も年齢や立場で決められていたようです。
―序文があるのは珍しいのですか?
序文と漢詩というスタイルは当時流行していました。ただ、中国ではこのような縦形のものはなく、日本独自の形と言えます。
―中国にもあるのですか?
中国では絵巻のような巻物になり、掛け軸はないようです。
―題材になった「南鄰」(なんりん)はどんな詩ですか?
錦林先生 烏の角巾 園に芋栗を収めて 全は貧ならず
賓客を看るに慣れて児童は喜び 食を階除に得て 鳥雀は馴る
秋水纔かに深し 四五尺 野航恰も受く両三人 白沙翠竹 江村の暮
相送れば柴門に月色新たなり
杜甫と杜甫が成都に作った小庵浣花草堂の南鄰に住んでいた朱山人という隠者の交遊を詠んだものです。
この作品では最後の1句「白沙翠竹 江村の暮 相送れば柴門に月色新たなり」(白い砂、緑の竹、江ぞいの夕暮れ、たがいに見送れば、柴で作られた粗末な門に月があらわれた)
を取り上げて送別のテーマとし、それぞれが詩を書いています。
―絵もこの詩の情景ですね?
そうです。水墨画なので色はありませんが、近くに川が流れ、白い砂(白沙)、竹林(翠竹)、柴門、月、そして別れを惜しむ人物です。真っ暗になる前(暮)に、満月がのぼったのでしょうか。
絵を描いた人物は分かっていませんが、絵を得意とする禅僧が描いたと思われます。
―そういえば、「柴門新月」の「新月」は月のない状態ではなく、月が出ているのですね。
月の見えない「新月」ではなく、「月色新たなり」からきているので、今、月が昇ってきた様子を表現しているのだと思います。
―なぜ杜甫の詩が取り上げられたのでしょう?
理由は明らかにされていませんが、室町時代前期の禅僧の間で杜甫の詩が流行していて、18人に共通認識のある漢詩として選ばれたのだと思われます。
―これは国宝ですよね。どういったところが評価されているのですか?
制作年がわかる詩画軸として最も古い作品であり、製作経緯も明らかです。このようなところが評価されています。
―詩画軸のテーマは送別の他に、どんなものがあるのですか?
中国の古詩を典拠として友人への言葉を贈る「詩意図」や実際は賑やかな市中にいるのに、人里離れた山水にある建物を描くなど、隠遁に憧れる禅僧の心象風景を描いた「書斎図」などがあります。
―今でいうバーチャルの世界ですね。詩画軸はこの後の時代、どうなりましたか?
室町時代だけのもので、応仁の乱(1467年〜)の後はほぼなくなってしまいました。
―この作品を一言で言うと
南渓を慕う18人の禅僧による寄せ書きです。
絵を描いた人物が別にいるとすれば、19人の合作かもしれません。温かみのある絵、人々の思いのこもった作品です。
今回の作品:国宝 柴門新月図(さいもんしんげつず)
時代 室町時代 応永12年(1405年)7月
作者 序文 玉畹梵芳 ぎょくえんぼんぽう
杜甫の詩「南鄰」の一節「白沙翠竹江村の暮 相送れば柴門に月色新たなり」から着想を得て制作されました。漢詩と絵を同一画面上に記す、中国の詩画一致の思想から発した詩画軸と呼ばれる形式で画面下方に絵、上方に漢詩文がぎっしりと詰まっています。
最上段には玉畹梵芳が、友人南渓に送るために制作したと序文を記しています。詩文を寄せるのは、18名の南禅寺の僧。作品のテーマは「送別」です。制作年がわかる詩画軸として最古の作品です。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。