―小倉色紙とはなんですか?
藤原定家(1162~1241)が『古今和歌集』などから選んだ和歌百首を色紙に書いたもののうちのひとつです。京都嵯峨野に営まれた小倉山荘を飾るために、依頼を受けた定家が色紙100枚に和歌を書いて、障子に貼ったものと言われます。小倉山荘にあったことから「小倉色紙」と呼ばれます。
現在かるたとして知られる「小倉百人一首」の元になったと考えられています。
―100枚あったということですか?
そのように考えられていますが、江戸時代にはすでに30枚程度しか残っていなかったようです。
―現在の色紙に近い形なのでしょうか?
最初から正方形に近い色紙形の紙(料紙)に記されています。今、寄せ書きなどに使う、厚みのあるものではなく、ある程度しっかりした四角い紙だったと思われます。
―これも、掛軸にされているんですね。
茶の湯の世界では、侘び茶の祖であり千利休の師でもある武野紹鷗(たけのじょうおう 1502~1555)が、それまで禅宗の高僧が書いた墨蹟を用いてきた茶の湯の席で、初めて和歌の軸を掛けたのが「小倉色紙」(和歌は不明)なのです。
―何が書いてありますか?
(書き下し濁点なしで)
ちきりきな かたみ(契りきな かたみ)
にそてをしほり(に袖をしぼり)
つつ すえのまつ山(つつ 末の松山)
なみこさしとは(波越さじとは)
百人一首の中の清原元輔(きよはらのもとすけ 908~990)の歌、一首です。
何となく聞き覚えがあるのではないですか?
ちなみにこの歌は『後拾遺和歌集』に載っています。
―仮名なのですか?
基本的に仮名が使われていますが「山」だけが漢字です。
その他の文字で漢字のように見えるものも、仮名として記されています。
3行目の「す」は「数」と書かれていますが、「す」と読みます。
―書いたのは藤原定家ですか?
はい。定家自筆と考えられています。
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな 1172?~1259 鎌倉幕府初代執権、北条時政の娘婿。出家後は京都に住んだ)の依頼を受けて、定家が和歌を選び書写したとされています。定家の日記(『明月記』)に、依頼されたことが書かれています。
ただ、小倉色紙として残されている全てが定家自筆ではないという説もあります。
―文字に特徴がありますね。
定家の文字は「定家様(ていかよう)」と呼ばれます。
文字に独特のくせがあり、仮名文字を連続して繋げて書くよりも、ひと文字ずつ分けて記されています。
しかし、定家様が脚光を浴びるのは江戸時代になってからで、小堀遠州や松平不昧(ふまい)など茶人が使いました。定家の筆跡は、フォントの元に使われるなど、現代でも愛されています。
―ずいぶん派手な紙で、文字が見えづらいです。
金地に銀で、三角形と横に棚引く雲のような形や、箔を小さく切った、切箔や野毛(のげ)を使って装飾した紙(料紙)が使われています。銀箔などが酸化し黒く変色しており、墨で書かれた文字が見えづらくなっています。小倉色紙に使われた紙(料紙)の装飾は、全て同じではなく、白地の紙にかかれたものもあります。
今回の作品: 小倉色紙(おぐらしきし)
1幅
時代 鎌倉時代 13世紀
作者 藤原定家
藤原定家(1162~1241)が『古今和歌集』など勅撰集から100人100首を選び、色紙に書いたものの内のひとつです。京都小倉山にあった山荘の障子に貼ったものと言われ、現在かるたとして知られる「百人一首」の元になったと考えられています。千利休の師である武野紹鷗らが茶会で使用したため、墨蹟とともに茶の湯の掛物として使われるようになりました。現在は30枚程度が現存しているようです。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。