断簡(だんかん)とは?
―これは何ですか?
現存するもっとも古い『古今和歌集』の写本として知られる「高野切」のうち、巻第18の断簡です。断簡というのは、もともとは巻子だった絵巻などを切ったものです。それを掛軸などに仕立て直しています。これは『古今和歌集』巻第18雑歌下の内、歌番号978~980の部分になります。
―高野切って何ですか?
巻第9の一部分が高野山にあったことから、「高野切」と呼びます。豊臣秀吉が全20巻の内、巻第9の巻頭17行分を切り取り、高野山の木食応其(もくじきおうご1536〜1608)に送ったことからついた名前です。
そこから9巻巻頭17行だけでなく、全20巻全てを(たとえ巻子が完全な形で残っていても)「高野切」と呼びます。高野切は全20巻の内、5,8,20の3巻のみが完全な形で残り、2,3,9, 18, 19巻は断簡、その他は失われてしまっています。
高野切の切(きれ)とは、切り取られた断片を指す言葉です。高野切のような作品を「古筆切(こひつぎれ)」と呼びます。
―古筆とは?
現在は主に平安時代~鎌倉時代の美しい筆跡の作品のことです。
「古筆」は江戸時代にできた言葉で、その当時は江戸時代よりも古い時代の筆跡を指していました。
―これは掛軸になっているのですか?
はい。
掛軸は作品を保護する一方で、壁や床の間に掛けるためのものです。裏打ちをし、裂や紙を貼り、紐をつけます。表具、表装とも呼びます。
この形式は中国など大陸が発祥と考えられています。
―高野切には何が書かれているのですか?
きれいな字ですが、簡単には読めないと思います。
書いてある全文は(濁点なし)
むねおかのおほよりかこしより 宗丘の大頼が越より
まうてきたりけるときにものか 詣で来たりける時に物語
たりなとしはへりけるにゆきの などしはべりけるに、雪の
ふりけるをみておのかおもひこの 降りけるを見て、己が思ひこの
ゆきのことなんつもれるといひける 雪のごとなん積もれる言いける
をりによめる 折に詠める
きみかおもひゆきとつもらはたのま 君が思い雪と積もらば頼ま
れすはるよりのちはあらしとおもへは れず、春より後はあらじと思へば
かへし 返し
おほより 大頼
きみをのみおもひこしちのしらやまは 君をのみ思ひこしじ(越路)の白山は
いつかはゆきのきゆるときのある いつかは雪の消ゆる時のある
こしなるひとにつかはしける 越なる人につかはしける
つらゆき 貫之
おもひやるこしのしらねのしらねとも 思ひやる越のしらねのしらねとも
ひとよもゆめのこえぬよそなき 一夜も夢の越えぬ夜ぞなき
―どんな内容ですか?
宗丘大頼(むねおかのおおより)や紀貫之らの歌です。越(今の富山県)から来た大頼が京へ来たときに語り合っていると、雪が降ってきたのを見て歌を詠みます。
詠み人の名前はありませんが、最初の歌は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とされています。
「あなたの思いが雪のように積もっているというのなら、春になると溶けて無くなるので、あてにはできませんね」といった内容です。なんだか恋の歌のようです。雪と越の国をキーワードにした歌のやりとりです。
―古今和歌集はどんな和歌集ですか?
905年に醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰集です。編者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠峯です。原本は現存しておらず、最も古い写本が「高野切」の名前で呼ばれる『古今和歌集』です。歌は全部で1111首があります。
―勅撰集はいくつあるの?
平安時代の『古今和歌集』から室町時代の『新続古今和歌集(しんしょくこきんわかしゅう)』まで21の勅撰集が作られました。
―なぜ切り取ってしまうの?
本来はお経や絵巻のような巻き物(巻子装)でした。
室町時代以降、床の間に絵や書を掛けるようになったのですが、茶道が隆盛すると、茶席の床の間などに掛けるために、さらに掛軸の需要が高まりました。
更に、江戸時代になると古筆を収集することが流行し、数に限りのある優れた品は切断され、諸家に分蔵されました。
こう言った古筆切は、誰が何をいつ切り取ったかという記録が殆ど残っていません。
―伝 紀貫之 筆というのはどういうことですか?
伝承筆者(または伝称筆者)という意味で、言い伝えられてきた筆者名です。
「伝」と付いた場合、本当の筆者ではない場合が多くあります。
「高野切」は全20巻すべてを紀貫之が書いたと言い伝えられてきたので、「伝 紀貫之 筆」とされています。
戦国時代(室町時代)の1544年、後奈良天皇が巻第20の巻末に「此の集の撰者筆跡の由、古来称する所なり」と記しており、この時には「古来より称」されている紀貫之筆として知られていたことが分かっています。
ところが実際は、11世紀中頃の書写のため、紀貫之(872〜945)ではないことが確定しています。
筆跡や紙など、見どころは?
―なぜ、11世紀中頃の書写とわかるのですか?
現存する「高野切」の筆跡から、3人が担当して書写したことがわかり、筆跡の似ている他の作品との照合が行われました。
3人の筆跡を分けるために、第1種(1,9,20巻)、第2種(2,3,5,8巻)、第3種(18,19巻)と便宜上呼ばれています。第1種の筆者が責任者で、第3種の筆者が一番若手と言われています。第2種の筆者は、平等院鳳凰堂扉に文字を記した源兼行(みなもとのかねゆき 生没年不詳)と同筆とわかり、11世紀中頃の書写であることが判明しました。
―なぜ若いとわかるのですか?
3種類の筆跡の内、最も変化が少なく、自然な連綿体で書かれています。
文字は端正で平明、流動美があるなどと評されています。
書写が技巧的でないところや、担当した巻が推定で巻第13~19であることなどから、3人の内、最も若い人が当たったと考えられています。
このように流れるような仮名文字を女手とも呼びますが、書いた人は男性と考えられています。
―このような作品を見るときは、どんなところを鑑賞しますか?
高野切の書は仮名書道の最高水準とされ、現在でも仮名のお手本にされています。
書道をされている方は文字を読み、墨の濃淡や筆の運びなどを見ると思いますが、たとえ文字が読めなくても空間的な美しさや感覚的な形を鑑賞できます。
仮名を数文字ずつ連続して筆記する「連綿体(れんめんたい)」が最も美しい時代の文字です。作られてから約1,000年が経っていますが、今でも惚れ惚れするほど、たおやかで美しい文字で記されています。断簡となったのが惜しまれますが、一部分だけでも残されたことが僥倖とも言えます。
―人気のある部分はあるのですか
紀貫之が書写したと信じられていたので、貫之の歌を含む部分に人気がありました。
歌を詠んだ人が自ら筆を執って書いた部分になるからです。
―この紙はどんな紙?キラキラしていますね?
和紙に雲母(キラ)が撒かれた料紙です。
ぎらぎらと光るものではありませんが、あれっ?と思うくらい、控えめに銀色に光ります。雲母は花崗岩などに含まれる、六角板状の結晶。薄く剥がれてキラキラと光る鉱物です。
―左に空白が多くありますが、最後の部分ですか?
最後ではなく、巻第18の途中です。この作品の頭と末の何行かを消去しています。
巻子なので行間を大きくあけることはなく、すべてが同じペースで書かれているはずです。ですので、この作品の前後にも別の歌が同じ調子で書かれていたと考えられます。おそらく、掛軸に改装した時に、巻頭に少し、巻末に大きく空間を取った方が落ち着きが良いため、文字が消去されたと思われます。
―文字を消すことが出来るのですか?
方法は分かりませんが、出来るようです。
掛軸に仕立てた時に美しく見えるようにするため、文字を消したり、紙をつけ足したりします。
空白には雲母が沢山撒かれています。一部、文字の墨の上にものっているので、後から追加で撒かれている可能性があります。
今回の作品: 重要文化財 古今和歌集巻第十八断簡(高野切)
こきんわかしゅうまきだいじゅうはちだんかん(こうやぎれ)
1幅
時代 平安時代 11世紀中頃
作者 伝 紀貫之 筆
現存するもっとも古い『古今和歌集』として知られる「高野切」の内、巻第十八の断簡です。本来巻子装で20巻揃いでしたが、現在は3巻の完本の他は切断された一部が残るだけとなっています。巻第十九の一部分が高野山にあったことから、完本も含め各所に分蔵される全てを「高野切」と呼びます。
書風により第一種、第二種、第三種に分けられ、それぞれ筆者が異なっています。この作品は第三種に当たります。書写した人物は明らかになっていませんが、平明で明るい筆跡は、3人の内で最も若い人物と考えられています。
藤田美術館
明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と息子の平太郎、徳次郎によって築かれた美術工芸品コレクションを公開するため、1954年に大阪に開館。国宝9件、重要文化財53件を含む世界屈指の日本・東洋美術のコレクションを所蔵。
前野絵里
藤田美術館主任学芸員。所蔵する日本や東洋の古美術品に絡むものはもちろん、宗教、建築、歴史なんでも気になる。直接役立つことも役立たないことも体験体感することが一番と考えている。