1738年創業、280年を超える歴史をもつ帯の製造販売の老舗、誉田屋源兵衛の十代目山口源兵衛さん。自身の探究心から斬新な作品を生み出し、デザイナーや建築家、セレクトショップ、日本画家などとのコラボレーションも受けて立つ。日本の染織1500年の歴史の最先端を突っ走る源兵衛さんに会いに、京都・室町の本社を訪ねました。
西欧が憧れる、日本の職人技
藤田 清(以下藤田) 今日はお時間いただき、ありがとうございます。初めてお邪魔しますが、素晴らしい建物ですね。いつ頃のものなのですか?
山口源兵衛(以下山口) ここは明治40年から10なん年かかけて建てられましたので、100年と少し前のものですね。
藤田 ちょうど建物の中で「KYOTOGRAPHIE」の展示が行われていますね。シャネルがプロデュースした作品のかっこいい展示会場になっています。
山口 ありがとうございます。実は「KYOTOGRAPHIE」では、ずっとシャネルが協賛した作品の展示会場になっています。
藤田 それは何かきっかけがあったんですか?
山口 最初にたまたまシャネルがここでやりたいとおっしゃって、そのまま続いているんです。
藤田 シャネルはアパレルの会社だから、帯屋さんである誉田屋さんとの共通点があることがきっかけなのかと思っていました。
山口 共通点ということであれば、ヨーロッパの多くのトップメゾンが見学にいらっしゃっています。とある有名なデザイナーさんはね、1時間の予定だったんですが、結局5時間も滞在されました。その方は、とにかく帯を手で触りまくるんです。これは正しいことだとは思うんですが、汚れたらかなわんなと困ってしまって。そして「源兵衛さんの帯は全部欲しい」とおっしゃる。僕はお世辞かなと思っていたんですが、本気なんですよ。そんなこと言われたら、こちらは売ってもいいものと売れないものがあるので、いちいちこれはダメ、これはいい、などとやるのも面倒だから、全部非売品ですと申し上げて(笑)。
藤田 売れない帯というのは、どういったものなのですか?
山口 帯を織るということは、最終的には個人の技なんです。その職人の子供が毎日横で仕事を見ていたとしても、同じことはできない。だから難しいものを織る人の帯は、その人がやめてしまえば、もう織れなくなってしまう。そうしたものは海外の博物館・美術館の方々がいらっしゃっても、絶対に見せられません。彼等はとても貪欲なので(笑)。
藤田 源兵衛さんは、そうした海外から来る人々に対して、どんなことを伝えたいとお思いですか?
山口 やはり、人ですね。職人のものづくりの技です。その点で我々が有利なのは、鎖国があったということですね。そのおかげで産業革命が欧米よりも100年遅れました。その100年の間に、あちらは手仕事がみんな消えてしまって、繭すら何だかわからないようになりました。明治の5〜6年に西陣にジャカードが入ってきましたが、みんな、機械でやったらあかんやろ、手で一越ずつ魂込めるもんやと抵抗した。だから日本には、手仕事の伝統が残りました。うちの職人さんはいまだに拒否しています(笑)。では、少し帯をお目にかけましょう。
源兵衛さんが実現した、超絶技巧の帯
山口 これは、孔雀の羽根で織ったものです。
藤田 孔雀ですか!? いやあ、すごいな。この帯を1本織るのに、どのくらいの量の羽根が必要なんですか?
山口 もう数えていないです(笑)。なぜこれを作らなあかんことになったかというと、上杉謙信のおかげです。孔雀の羽根を使った陣羽織を着た戦国武将は結構いるんですが、ほとんどは、羽根をそのまま挿しているだけ。でも謙信は、織物を作った。もう虫食いでボロボロなのでお見せできないのですが、実物があります。孔雀の羽根自体は今のほうが手に入りやすいわけですから、謙信が450年前にやったことが私にできなかったらえらいことだと思って、負けてたまるかと作ったのです。
藤田 当時のものを見ながら織り方などを参考にしたんですか?
山口 それは見ればわかります。難しいのは羽根を糸にすることで、意外に骨だらけなので、僅かな柔らかい部位だけを使っています。
藤田 自然光のもとで見るとまた色が全然違いますね! 見る角度によっても、緑、青、赤っぽいアンバー、黄色とさまざまな色が見えてきます。
山口 それは職人さんが真面目だからです。すべて同じ方向に揃えているから、見る角度によって色がぱっと変わるんですね。そんなことまでは頼んでいないのに、そうしてくれました。
藤田 これは1本だけですか?
山口 そうです。織り始めてすぐ、職人さんから「もう二度としませんから、これが完成したあと、もう1本織れとおっしゃるなら今やめます」と言われました。こちらは1本だけでも欲しいから、それで結構です、と言うしかない。全部出し切ってこれを織ってくださって、引退しはりました。
藤田 こちらは、宗達ですか?
山口 はい。私は20代後半に出合って以来、俵屋宗達が本当に好きなんです。
藤田 ぱっと見て染め物に思えてしまいますが、織物なんですね。
山口 そうなんです。実際の作品は、たらし込みという、にじみを使った手法で描かれています。それをタテとヨコの糸で表現しようとするのですから、大変です。10種類以上の濃淡をつけた墨染めの糸を用意したりしましたが、あまりよくありませんでしたね、全体がぼやけてしまって。
藤田 それよりもコントラストが大事なんですね。
山口 そうです。織物をしている人は「こんなものを織れるはずがない」と言うと思うんですが、何と言うか、僕は機の都合でものを考えていないんです。宗達に笑われないものを作るということが前提であって、機をそれに合わせていくという考え方なんです。
藤田 織れる織れないではなく、どう織るかということですね。
山口 そうそう、そういうこと。変な考え方かもしれませんが、織物には凹凸がありますよね。悪いけど、宗達がなんぼ天才といっても、あちらは絵画だから凹凸がありません。そやから本当は私が勝つはずなんです(笑)。でも、今のところはっきりと負けたと思っています。宗達の作品に漂う品格というものが、やはりね。
藤田 職人さんは、織る人だけではありませんよね?
山口 完全な分業です。織りの設計図である紋図を書く職人さんをはじめ、1本の帯を織るのにだいたい6人のチームを組みます。それぞれの分野のエキスパートが揃わないとならない。完成したら、誰のおかげで完成度が落ちたかというのは見ればわかってしまいますから大変です。こ
ちらは、ラピスラズリを染料にして織ったもの。
藤田 これもすごい色です。光が当たると奥行きが出て。
山口 ラピスラズリは染まり切ってはいなくて、糸に付着した状態です。たまたま暇にしていた弁柄の職人さんを紹介してもらって、ラピスラズリを微粒子にしてもらいました。これは日光東照宮の改修の際に、友人が現場にいたものですから中に入らせてもらって、夜遅くまで自由自在に歩き回ったときに見た極彩色の木彫の装飾がヒントになっています。だから闇夜に浮かんでいる雰囲気を出したかった。
藤田 それで全体的に光が抑えられているんですね。これだけ明るいところで拝見しても、闇夜の感じがわかります。
山口 この背景は黒漆です。漆はあんなに硬いものですが、西陣には漆の糸を作っている職人さんがいるんです。
藤田 西陣は、そういう意味で、すごく前衛的でもありますね。こういう素晴らしい作品を、世界にどう発信していったらよいのでしょう。ただの自慢ではなく、これだけ日本に優れた技術と感性があるということを。
山口 もし染織のオリンピックがあるとしたら……、出ません(笑)。金メダルに決まってるから、審査員になりましょうか。
誉田屋源兵衛×藤田美術館のコラボレーションが実現!?
藤田 こんな風に素晴らしい帯を拝見してしまうと、私たちの美術館の作品でも何か源兵衛さんのインスピレーションの元になるものはないか、と考えてしまいます。
山口 それはいいですね。もし可能ならば、出来上がった帯と作品を一緒に並べて展示をするなど、いかがでしょうか。
藤田 面白そうですね。僕らからの提案としていくつか作品を用意して、源兵衛さんにご覧いただいて。帯を1本作るとなると、どのくらいの期間が必要になるんですか?
山口 さきほど帯を織るのに6人のチームを組むと申し上げましたが、私が20代の頃から30〜40年の付き合いをしてきた職人さん達が、今ようやく円熟の時を迎えて揃っているんです。だから今なら1年でできると思います。今ならば。
藤田 立体の作品と、平面の作品、どちらもご覧いただきたいです。どう織物で表現してくださるのかが楽しみです。
山口 以前、日本画家の松井冬子さんとコラボレーションしたときに私が考えたのは、彼女の作品のコピーを帯にするだけではあかんということでした。コピーではなくて、松井さん自身も知らなかった松井さんを表現しなければならないと。コラボレーションって、戦いですから。
藤田 僕、むっちゃプレッシャーかかってきました(笑)。
山口 偉そうに言っているのとは違うんです。そのくらいの闘争心で挑まないと、本当にできないということなんです。
藤田 確かに、作品に迎合してもいけませんしね。今、頭にいくつかの作品が思い浮かんでいるのですが、もしこの企画が実現するとしたら、ものすごくシンプルな作品で、見えないところに何かが見えているというようなものがいいんじゃないかというようなことを考えています。
山口 そうですね。染色の最初は鉱物染めなんです。真っ赤な赤土で染めてもわずかに黄色くなるだけで、明らかに色を求めているわけではない。つまり、大地のエネルギーをいただくためにそうしていたということなのでしょう。自分を守るものだったのでしょうね。
藤田 よくよく考えたら、服に色をつける必要はないですものね。それを鉱物で染めるということは、自然と一体であるとか、そういうことでしょうか。
山口 おっしゃる通りです。その後の植物染めも、たとえば平安時代には、衣に花びらをこすっているんです。これも色は付かないのですが、そうすることで、旅の無事を祈っている。自然の力に守ってもらうということでしょうね。あの時代には、目に見えないものがたくさんありました。現在では色が色として見えるようになっていますが、そうなると、目に見えているものしか見なくなります。それを何とかしたいですね。ますます、見えない色が肝心になったと思っています。
藤田 見えないものを、見せたいですね。
山口 そうなんです。その感受性が消えてしまったらえらいことです。
藤田 明日さっそく、作品を確認したいと思います。この企画はぜひ実現させたいですね。本日はありがとうございました。
山口源兵衛(やまぐち げんべえ)
1948年京都市中京区室町に生まれる。1979年十代目誉田屋源兵衛襲名。1985年、原始布を素材とした個展を開催。以後、東南アジアの野蚕糸を帯に用いた作品を発表。2002年、皇居内の養蚕所のみで飼育されていた古代繭「小石丸」の解禁にともない、着物を制作。東京・赤坂の草月会館にて「かぐや、この繭。『小石丸』展」開催。日経優秀賞受賞。2003年、日本文化デザイン大賞受賞。2006年、デザイナーのコシノヒロコ、建築家の隈研吾とのコラボレーション「襲ー墨象色象展」を東京・大丸ミュージアムにて開催。2008年、ユナイテッドアローズと男性用着物を制作。東京コレクションにて「傾奇者達之系譜」を発表。2009年、田中泯主演の映画「ほかいびと」の衣装を手がけ、「平成の糞掃衣(ふんぞうえ)」を制作。2012年、NHK BS「たけしのアート☆ビート、帯に魂を吹き込む男」に出演。2014年、画家・松井冬子の絵を表現した帯を東京・六本木ヒルズでの「アートの夜会」にて発表。
藤田 清(ふじた きよし)
1978年藤田傳三郎から数えて5代目にあたる藤田家五男として神戸に生まれる。大学卒業後、2002年に藤田美術館へ。2013年に館長に就任。2022年の美術館リニューアルに向けて準備中。