以前から、建築家・中村拓志さん設計によるホテル「ベラビスタ スパ&マリーナ 尾道」を何度も訪れ、その圧倒的な美しさに魅了されていたという藤田館長。今回、縁あって対談が実現し、中村さんが設計した礼拝堂と休憩所のある狭山湖畔霊園を訪ねました。美術館や教会、ホテル、公共施設など数多くの設計を手がける中村さんに、人と建築との関係について伺います。
人の振る舞いと「道行き」を深く考えた建築
藤田 清(以下藤田) 今日はお忙しいところ有難うございます。私は何度か「ベラビスタ」にお邪魔していまして、中村さんのお名前は以前から一方的に存じ上げていました。今回、お目にかかることができて嬉しいです。
中村拓志(以下中村) ありがとうございます。
藤田 「ベラビスタ」のロビーは本当に印象的ですね。エントランスの自動ドアが開いた瞬間に、異世界が広がるというか。目の前が海で、ロビーから外のテラスまで青いタイルが続いていて、その先に水盤があって。その水盤に景色が映って、これがまた美しい。
中村 皆さんふわーっと先に進まれます。たまに進みすぎて、そのまま水盤に足を入れてしまわれる方もいらっしゃって、ちょっとやりすぎてしまったかなという気もします(笑)。その場における人の振る舞いは、建物が出来上がってからわかることも多いですね。設計のなかで、もっとも興味が尽きない点です。
藤田 今まで拝読した中村さんの記事や拝見したテレビ番組でも、「振る舞い」という言葉をキーワードにされていますね。建築物に、人の動きが常に含まれている。建物自体に、人の動きを促すような仕組みが備わっているというか。
中村 経路性といいますか、日本庭園などにも学ぶところが大きいですね。あとは、道行きという考え方です。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)などは、旅行記に近いけれど、道中の出来事そのものを楽しむというか、「過程」をひとつの作品として考えるというあり方に魅力を感じています。美術館も、ある意味同じことが言えるのではないでしょうか。
藤田 今回美術館をつくるにあたって、観覧者にどう動いて、どう見て欲しいかということ関しては、いちばん頭を使いました。展示する作品は展覧会ごとに変わるので、自由度を高めなければならない。けれども、どんな風にも展示ができて、どこからでも見られる、という風にやりすぎると、天井に仕切りの溝を無数に作らなければならなくなるなど、設備に負担が掛かり、見た目のノイズも増えてしまいます。ある程度の不自由さのなかで、最大限の自由さを得るために工夫するしかないと考えました。また、美術館は、にぎやかさと静けさが両方必要な場所なので、その切り替えをどうしようかと悩みましたね。伊勢神宮などもそうですが、川を渡り、鳥居をくぐることで場が切り替わり、「神域に入る」という意識を与えてくれます。美術館でも、にぎやかなエントランスから、前の美術館で使用していた蔵の扉をくぐって展示室に入っていただくようにしました。扉の先にも、照明を落とした少しひんやりするような空間をつくることで、緊張感をもたせることができるのではないかと考えています。「お静かに」といったサインを掲示したくなかったので、そうした空間を「何かをくぐる」という行為を重ねていくことで、気持ちを切り替えていただけるのではないかと。
中村 僕はグンナール・アスプルンドというスウェーデンの建築家が好きなんですが、彼が設計した「ストックホルム市立図書館」が思い浮かびました。大きな円形の図書館で、階段を上がると、壁に沿ってぐるっと書架が並んでいる円形のホールのまさに中心にぼん、と出るんです。そこに立った瞬間に、自分の足音や息遣い、咳の音などが反響して、自分の耳に集まって返って来るんです。それで、自然に「これはちょっと静かにしないといけないな」と思わされます。けれどもよく考えると、デスクに座って読書したり勉強したりしている人たちは中心点にいないので、意外に音は届いていないんですね。空間のエコーと人の振る舞い、こうあって欲しいという人のあり方までが考え込まれていて、本当にすごいと思いました。
藤田 それを早く聞いておきたかったです(笑)。
中村 これはまさに、その場に行って初めてわかった体験でした。設計者がそこで本を読むってどういうことなんだろうということを考え抜いている。そういえば、そこもやはり、外の喧騒からいったん黒漆喰の狭くて暗いエントランスホールに入るつくりです。まさに結界をくぐって階段を上がり、ぽんと出たところが明るくて真っ白で、音がばーっと来る。先ほどの「道行き」にも通じますが、人がどういう時間を経てどういう場を通過して、どういう気持ちでここに至ったのかということを深く考えることが、いい空間を設計することにつながるのではないかと思います。
藤田 なんだかもう1回美術館を建ててみたくなりました(笑)。
そこでしか得られない体験が得られる場所に
藤田 今回、狭山湖畔霊園には初めて伺ったのですが、見晴らしのよい場所でこれだけ軒を下げることって、すごく勇気のいることではないですか? きれいな景色が見えるところを見えなくするわけですから。
中村 確かに、勇気のいることでしたね。ここの設計でいちばん大事にしたかったのは、この場所を訪れる人々に寄り添える空間をつくることでした。悲しみの中にある人に、景色がきれいでしょう、と大きなガラス窓をどーんと開いて見せるのは何か違うのではないかと思ったのです。人々のうつむきがちなまぶたに合わせるように、建築も寄り添いたかった。軒の高さを1.4mにして、座らないと窓の外が見えないようにすることで、「疲れたでしょう、ちょっと座って休んで行かれたらどうですか」というメッセージを伝えたいと考えました。
藤田 ここもまた、実際に来なければわからないことですね。
中村 今は、SNSなどの写真で満足してしまう傾向もありますものね。
藤田 美術館でも、これからはVRなどを採り入れなければならないのではないかと話し合ってはいるのですが、結局、本物を見てみたい、ということにどうやって気付いてもらえるか、と考え続けています。
中村 私も、その場に来なければわからない体験をどれだけ膨らませるかに注力しています。匂いだったり、風だったり、写真には残らないものをどこまで拡大していくかということですよね。ここを設計するにあたり、まず祖父のお墓にお参りに行きました。お墓に水をかけて掃除したりしながらしばらく墓前にいると、御影石の墓石に映る木漏れ日や雲をぼーっと眺めている自分がいて、祖父に語りかけると周辺がざわざわっとなるような、応えてくれていると感じられる瞬間がありました。あるいは以前、薪能を見る機会があったのですが、その際も、霊魂である主人公が草葉の陰にすっと消えて舞台が終了した瞬間に、能舞台の奥の森に突然強い風が吹いて、ざわざわと音が立ちました。能の芝居の演目と自然現象がリンクしたことに、ものすごい感動を覚えました。日本人は、自然現象と自分の心を重ねて生きてきたんだということを実感しましたね。霊園は亡くなった方との思い出に浸ったり、故人に会いに来る場所です。そんな時ある種の自然が起こす現象に包まれると、故人が会いに来てくれ語りかけてくれたような気持ちになるのではないかと思います。そのため、水のゆらぎで風が感じられるように水盤をつくり、その水盤の反射光を映す媒体となるような屋根にしようと考えたのです。この空間は太陽や雲、風の動きによって刻々と表情が変わります。こうしたかすかな光の動きをあらわすために、食事をする箇所以外はダウンライトを一切入れないというチャレンジをしています。墓地にはどうしても薄気味悪いというイメージがつきまとってしまうので、明かりをつけないことに反対の声もあったのですが、対話を重ねる中で、夕方には閉める施設でもあるので、そうしましょう、と賛同をいただきました。
藤田 たしかにそういうことはありますよね。私も父の納骨の際に、鬱蒼とした山の中にあるお墓に納骨を済ませて手を合わせた瞬間、やはり風が頭上で渦を巻くようにぐるぐると回っているのを感じました。そういう時って不思議と怖くはないですよね。あ、いるのかな?と思うくらいで。ですから、この建物のやさしさや水盤の水の動きの大切さが、すごくよくわかります。
これからの建築と美術館のあり方とは
中村 たとえば本の世界では、アマゾンなどのインターネット通販の台頭によって、書店の実空間で検索性を上げて目的の本に素早くたどり着くことの意味が低下して、書店ならではの偶然の出会いや、そこに行かなければできない体験のための場所という風に、かなりドラスティックに変わりましたよね。音楽やファッションなどさまざまな業界でも、ライブなどの体験に価値を置く傾向が出ています。建築では、マスメディアが台頭してきた時代に「モダニズム」が起こり、雑誌に写真を掲載することで、その場に来られない世界中の人に思想を伝えていく、言い換えれば、写真で伝わりやすい建築に、ガラリと方向転換したことがありました。そしてインターネットやSNSが発達した現在は、写真では伝えきれないところをどれだけ膨らませて体験してもらうかということに価値を見出し、軸足を置くようになりました。美術館では、今後、見せ方がどんな風に変わっていくのでしょうか。
藤田 幕がかかっている場所に小さな穴が空いていると、人はつい覗いてしまいますよね。覗いても全体像が見えないから、気になって調べるようになる。極端な話ですが、見た人にそういう広がりをもってもらえるような展示を考えることは大切かなと思います。1枚の古いお皿でも、そこに描かれた絵が好きな人、形が好きな人、つくられる工程に興味がある人、過去の持ち主が気になる人、そのお皿が使われていた時代を知りたくなる人などさまざまで、求めればどのポイントでも掘り下げられるのが美術の面白さ。すべて説明するのではなく、「ちょっとこれを調べてみよう」という意欲をどれだけくすぐれるかという点が、学芸員の腕の見せどころかなと思います。古美術商の方の見せ方も参考になります。行くと、まずは興味をもっているわけではないようなもの、だんだんと見ているうちに自分の興味とつながるものが出てきて、そこには「これは面白い」と思えるようなヒントがあります。その後で、前の作品を見て掘り起こされた好奇心にフィットするものを見せてもらえる。そうすると欲しくなってしまう(笑)。そういう見せ方のリズムなどに学ぶことが多いですね。建築でも、何か自分とつながりがあると感じさせてくれる場所を好きになったり、興味をもったりするのかなと思います。
中村 なるほど、多様な価値観の時代、情報過多の現代を踏まえた新しい表現は、1人1人の心象や体験を徹底的に考えることから始まるんですね。個別性や体験という意味では、広い空間であっても、壁が背負えたり、ちょっと何かに触れられたりするようなパーソナルスペースをつくることは大切ですね。僕も設計では、今、自分だけのための空間にいる、自分だけがこの体験をしている、という実感を大切にしたい思っています。
藤田 最近、見るからに座る以外のことを許さないベンチをよく見かけますが、座っても居心地はよくないですよね。休憩できますよ、と機能だけを考えているのかもしれませんが、すごくもったいないし、残念です。
中村 座ったらどんな景色が見えて、どんな空気を感じるのかというところまでは考えられていないのかもしれませんね。美術館は、まさにそれが重要な場所じゃないですか。近い距離で作品をじっと見て、ちょっと息抜きして遠くを見たくなる瞬間を、どんな場所に設定するか。
藤田 何しろ建物がもう完成してしまっているので、難しい課題です(笑)。でも、そういうことも考えながら、会場構成や展示の構成を考えていきたいですね。
人が本来もっている気持ちを引き出すきっかけに
中村 この墓地では、先ほどの休憩所と、この礼拝堂の2か所を設計しました。礼拝堂は、森のなかに建っていて欲しいと考えて、元ある木をなるべく残して、竣工後にも新たに木を植えています。
藤田 屋内なのに外とのつながりがより強く感じられて、むしろ森にいるような気分が高まります。木のいい香りがしますね。
中村 確かに、外の木々と林立する構造柱が連続しているように見えますね。ここはさまざまな宗教のかたや無宗教のかたが使う場所なので、祈りの対象を森にしようと考えました。そこで、ここに立って外を眺めた時の消失点を森の奥に設定し、そこに向けて引いた線に合わせて床の石を敷いています。だから、1枚ずつ形が違うんですよ。そして、祭壇に向けてほんの少し床が傾斜しています。
藤田 石の床のせいか傾斜はあまり感じませんが、森のほうを向いて外を眺めたくなる気持ちになります。
中村 それが命令形になってしまわないように気をつけています。森に眠る故人に思いを馳せるという、人が本来持っている心を引き出すささやかなものでなければ。
藤田 きっかけのようなものですね。とても独創的な空間なのに、すごく自然に思えます。すっと入り込めますね。天井もすごいですね。吸い込まれそうです。というか、工事が大変そうです(笑)。
中村 ものすごく大変でした。人が手を合わせるように、2本の柱を立て掛け合う扠首(さす)構造なのですが、下部は円形だけど、上部は直線に並べています。
藤田 建築が祈りのかたちを表現しているのですね。次は美術館に来ていただいて、単純な講演会というようなことではなく、パブリックスペースで何か創っていただくなど、何か面白いことを企画したいですね。
中村 ぜひ伺います。
藤田 本日はありがとうございました。
中村拓志(なかむら ひろし)
1974年東京生まれ。鎌倉と金沢で少年時代を過ごす。1999年明治大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。同年隈研吾建築都市設計事務所入所。2002年NAP建築設計事務所を設立。
街づくりから家具まで、扱う領域は幅広い。
自然現象や人々のふるまい、心の動きに寄りそう「微視的設計」による、「建築・自然・身体」の有機的関係の構築を信条としている。そしてそれらが地域の歴史や文化、産業、素材等に基づいた「そこにしかない建築」と協奏することを目指している。日本建築学会賞(作品)、日本建築家協会賞、日本建築家協会環境建築賞 最優秀賞をはじめ、受賞多数。
藤田清(ふじた きよし)
1978年藤田傳三郎から数えて5代目にあたる藤田家五男として神戸に生まれる。大学卒業後、2002年に藤田美術館へ。2013年に館長に就任。現在は、2022年の美術館リニューアルに向けて準備中。