長くアメリカを拠点とし、世界中のゴルフトーナメントと名門ゴルフコースを写真におさめてきた宮本 卓さん。マスターズ・トーナメントの世界最多取材回数を誇る、ゴルフ専門の写真家です。10年前にロサンゼルスから東京に拠点を移し、縁あって神戸に移住したばかり。神戸生まれで現在も神戸在住の藤田館長が、移住のきっかけとなった美しいご自宅兼ギャラリーに伺いました。話をするうちに、ゴルフとお茶、日本美術との意外な共通点が明らかになりました。
ゴルフ専門のフォトグラファーとして
アメリカで地位を確立するまで
藤田 清(以下藤田) 外観も素敵でしたが、素晴らしいお住まいとギャラリーですね。
宮本 卓(以下宮本) ありがとうございます。実は、引っ越しなんてまったく考えてなかったんですが、外国人のための不動産サイトを眺めていたら、偶然この物件を見つけてしまって。翌日、東京から新幹線に乗って下見に来ました(笑)。この家に住み始めて、調べれば調べるほど、神戸がゴルフに縁がある土地柄だということがわかってきました。
藤田 きっと、この地に呼ばれたんでしょうね。
宮本 呼ばれたのかもしれません。呼ばれたといえば、今年のマスターズ・トーナメントの取材で、松山英樹が日本人で初めて優勝した姿を目の当たりにしました。
藤田 松山選手、すごかったですね。テレビでグリーンジャケットを着ている姿を見たときは、鳥肌が立ちました。あの場にいらっしゃったのですか!
宮本 今年は新型コロナの影響もあって、さすがにちょっと気分がのらなかったんですよ。すでに日本のゴルフ場の撮影なども依頼されていたので。そうしたら、何故かマスターズの前に桜が開花し撮影を全てこなすことができてしまったんです。今年のマスターズはコロナのせいで、例年よりごくわすかな限られた人しか撮影が許されなかった。断ることにも抵抗があり、これが最後かなと思いつつ出かけて行ったら、まさかの松山の優勝で。グリーン・ジャケット授与のセレモニーの時は、ほかのフォトグラファーたちがみんなで「タク、ここはお前の場所だ」って、撮影場所の最前列の真ん中を僕に譲ってくれたんです。感激しましたね。松山はあの時、どう喜びを表現していいのかがわからなくなっていたようで、終始表情が固かったんです。だから最前列の真ん中から「ヒデキ、こうだよ!こう!」と、ガッツポーズを見せたら気がついてくれて、あのガッツポーズが実現したわけです。そこでやっと笑顔も出た。ほかのフォトグラファーに「タクのお陰でいい写真が撮れた、ありがとう」って感謝されました(笑)。
藤田 本当に呼ばれたんですね。宮本さんは、どのようなきっかけてゴルフを専門とする写真家になられたのですか?
宮本 写真家として駆け出しの頃に、青木功が日本人として初めてPGAツアーのハワイアンオープンで優勝したんですね。「すごいな」なんて思ってたら、翌日の新聞に、「アサヒゴルフ」という雑誌のゴルフフォトグラファー募集という小さな募集広告を見つけたんです。それまで、僕は音楽が好きだったので来日ミュージシャンの撮影をしたりしていたんですよ。それなのになぜか心を惹かれて応募して採用され、1983年にゴルフフォトグラファーになりました。その後、マスターズという世界一のトーナメントを雑誌で見て、自分もいつか行きたいという憧れを抱くようになりました。でも、なかなか取材許可が下りないんです。日本でも2〜3社しか入れなかったんです。だから初めてのマスターズの撮影は、ギャラリーとしてチケットを買って入りました。試合は木曜から日曜までの4日間なのですが、月曜から水曜までの練習ラウンドはギャラリーでもカメラを持つことができる。だからいつかここで正式に写真を撮れるようになることを目標にしようと思いながら、シャッターを切りました。
藤田 専門性が高いジャンルはとくに、最初の一歩が大変なのですね。
宮本 1987年に初めてギャラリーで入って89年から今まで、ずっと正式にフォトグラファーとして取材しています。あれよあれよという間に、世界で一番多くマスターズを取材しているフォトグラファーになっちゃった。通常は、雑誌や新聞などの媒体単位でフォトグラファーがはいるので、一人が長く連続して行き続けるということがないんです。でも僕は、7社くらいの出版社と契約しながら一度も途切れることなく取材を続けていて、マスターズの人からも「珍しい」と言われています。
マスターズは、選手も取材するメディアも、オーガスタの委員会が協議して選ぶ。選ばれた人々で大会を作っていくという姿勢ですね。
それに加え規則が厳しくて、オーガスタ専属のフォトグラファー1人と、招待されたフォトグラファーのうち特別に認められた1人以外は、ロープの中に入れず、撮影できる場所が限られているんです。今年の春はパンデミックの影響でヨーロッパからの取材陣がゼロだったのですが、僕を”もう1人”に選んでもらって、試合前に好きに撮っていいよ、っていう特別な権利をいただきました。
藤田 そこまでの道のりは、どんな感じだったのでしょうか。
宮本 僕は87年にアメリカに行ったのですが、日本の会社から「円」で撮影料をもらうのではなく、いつかアメリカの会社から「ドル」でもらえるようになりたいと思っていました。でも、とくに名門ゴルフクラブの門戸は固かった。そうしているうちに、2001年の同時多発テロが起き、3週間ほど時間ができたんですね。その頃はフィルムからデジタルへの移行期だったので、ロサンゼルスの自宅にこもって、今まで撮影してきた写真のフィルムをスキャンしてプリントすることにしたんです。これを趣味で集めた世界各国の古いアルバムに貼ってみたら、立派な作品集みたいなものが出来上がった。そうしたら誰かに見てもらいたくなっちゃって、当時世界一のゴルフコースといわれていた「ペブルビーチ・ゴルフリンクス」に送りつけたんです。会ったこともないのに、見てくださいって(笑)。
藤田 初めての売り込みが世界一のペブルビーチってすごいですね。
宮本 どうせ送るなら、1番のところに送らないと!と思って(笑)。そしたらね、すぐに電話がかかってきたんですよ。「あなたに会いたい」と。ロスから7時間くらいかけて車ですっ飛んで行ったら「契約しましょう」と言うわけです。嬉しかったのですが、契約書の内容を見ると、撮影料も含めて、結構厳しい条件だった。サインを戸惑っていたら、「タク、サインしたほうがいいよ。絶対にあなたのためになる。この契約で、あなたはパワーを持つことになるんだから。」って言われたんです。
藤田 どういう意味だったんでしょう?
宮本 僕もすぐにはわからなかったんだけれど、契約した翌週に、ペブル・ビーチから聞いたといって、ニューヨークの出版社から早速「写真が見たい」と電話がかかってきたんです。そうしてニューヨークに行ったら、作家の伊集院静先生を紹介してもらう機会が巡ってきて、写真を見た先生が興味を持ってくださり、4年間一緒に色んな国、世界中のゴルフコースを旅することに繋がりました。
藤田 それがパワーだったんですね!あっという間に色々な事が始まりだしたんですね。しかも楽しそうな企画!
宮本 同じゴルフコースにいても、作家の目線は全然違って、そこがとても面白かった。この4年間はすごく勉強になりましたね。
藤田 その”作家の目”というのはどんなものだったのでしょうか。
宮本 僕らはゴルフコースという広い場所のなかで、パンフォーカスしたり、どこかにフォーカスして切り取ったりというものの見方や技術はあるのですが、作家の目は、もう一歩踏み込んでフォーカスしているという感じでしょうか。空気感とか、風のそよぎとか、そういうささいなことに気づくんですよね。ゴルフコースは自然の一部ですから、太陽がどんどん移動して、影の長さが変わったり、いろんな変化がある。そういう、移ろう時間に対してどういう想いを持つかというのが、写真家と作家では捉え方が違うと思いましたね。そこが面白い。伊集院さんもその違いを面白がってくれました。
藤田 実は、この前、宮本さんの写真を拝見して、ゴルフ場の写真はどちらかといえば風景写真に近く、「静」のものだと思っていたのに、宮本さんの写真は動きがすごくあるという印象をもったんです。風の流れなどもあるとは思うのですが、その向こうに人がいる気配というか。
宮本 確かに、こういうゴルフ場の捉え方ってなかったよねって言ってもらうことがありますね。僕の心に飛び込んできたシーンをどうやって絵にしようかと常に考えています。僕はゴルフコースをとにかく歩くんです。朝日が出る前から歩いて、少し昼寝をして、若かった頃はそのあとゴルフして、夕日が沈む頃にまた歩く。歩いていると小さな花に気づくこともあるし、借景から生まれるコースの奥行き感が時間とともに変化していくのが気になったり。時間帯によって見え方が変わるので、そこが本当に面白いですね。
藤田 それはきっと、単にゴルフコースということではなく、ここにゴルフ場を作ろうと言い出した人とか、設計者とか、プレイする人とか、かかわった様々な人の思いがあって、それが写真に入っているのかもしれませんね。
異なる国の文化が交差する場所には
新しくて面白い文化が生まれる
宮本 もともと美しい自然があって、そこにゴルフ好きがゴルフ場を作るわけですけれど、そのためには、一度その自然を破壊するわけですよね。そのときに設計家が新たにどういうものを作るのか。周囲の自然とまったくのミスマッチだと、それは評価されないわけですよね。100年近く経つようなクラシックコースがなぜ素晴らしいかというと、周囲の自然と調和しているんですよ。実に馴染んでいる。
藤田 実は先日初めて神戸ゴルフ倶楽部に行ったんです。六甲山の上にあって、本当にびっくりするくらい坂を登るんですよね。高低差が凄くて、登ったり下りたりするのが大変だなとは思ったのですが、ゴルフであんなに楽しい体験をしたのは久しぶりでした。
宮本 子どものような気分になりますよね。
藤田 野原を駆け回っているような(笑)。
宮本 ゴルフの歴史を調べると、スコットランド人がゴルフを始めて、その後、フランス、アメリカ、日本なんかに10年を違わず同時に広まってるんですよね。スコットランド人が国外に移住すると、どうやらゴルフがしたくなってゴルフ場を作ってしまう。
いろんな国を旅してきて学んだことのひとつに、文化が交わるところは面白い、ということがあるんです。たとえばイギリスのリバプールは港町で、アフリカとの綿の貿易が盛んになり、アフリカの文化が流入しました。そこにぽろっとビートルズのような斬新なグループが生まれるんですよね。アメリカだと、たとえばニューオリンズは、あそこだけフランスの文化が入って来ていて、そこで文化が混じり合うことでジャズやブルースが生まれた。ジャマイカだってそう。そう考えると神戸も、長い間の鎖国が終わって最初に外国人が住み始めた場所の一つで、日本の文化と海外の文化がぶつかって、独特な奥深い文化を形成しています。こういう、文化が交差する場所に住んで、人と会ったり、酒を酌み交わしたり、ゴルフをしたりするということに憧れていて、一度やってみたい思ってきたことが実現しました。
藤田 神戸の街も本当に独特の文化ですね。鎖国前の日本は、当時最先端だった中国にすごい憧れをもっていました。中国文化が入ってくることで、日本の文化とぶつかって、新しいお茶の文化が生み出されました。明治時代になって、神戸は港町だから海外の情報が一気に入った。そこで海外の文化への憧れが高まったのでしょう。憧れるということは、強い原動力になるのかもしれませんね。
宮本 僕も憧れることはとても大事だと思います。憧れが成長や気づきを促して、自分に変化を与えることにつながるのではないでしょうか。それに、神戸は北に山があって南に海があって、その距離が近く、東西が開けている。つまり、日の出から日没まで、いろんな角度からの太陽をずっと楽しむことができるんですよね。それこそが豊かな土地なんだろうと思います。
藤田 山の側なのに古くからの住宅地が多いのは、そのせいでしょうか。こちらも景色が素晴らしいですね。
宮本 常に光が動いて、きれいですよ。また、やはり関西は京都、大阪、神戸と、歴史も文化も異なる3つの大都市が近接しているということで、非常に奥深い文化が育まれたのだろうと思います。ゴルフ場のクラブハウスに行くと、それがよくわかります。空気感が違いますね。
藤田 それは具体的にはどういうことでしょうか。
宮本 遊びを知っている人たちかどうかということだと思います。いろんな美味しい料理を食べて、着物を作って、歌舞伎を見て、贔屓を盛り上げて、そういう時間を楽しむことができる人たちの集まるクラブがもつ雰囲気は、何ものにも代え難いものがあると思います。
藤田 私は真面目なんでちょっと足りないところがあるかもしれません(笑)。でも、遊び心というのか、ちょっとした余裕というのか、それがある所と、ない所の違いはわかるような気がします。
宮本 お茶室などもそうなのかもしれませんね。
藤田 きっと感覚的なものなのでしょうね。
宮本 すべてマニュアルどおりにやるということではなく、芯はしっかりしているけれど、まあええやん、というところも残しておくというか。
ゴルフもお茶も、
そこに込められた思いを
読み解く遊びである
宮本 兵庫県神戸には、先ほど話に出て来た日本で初めてのゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部があります。そして隣の三木市には、世界でも有数といわれる廣野ゴルフ倶楽部があります。僕はここの写真集を作るために4〜5年通わせてもらったのですが、本当に、自分にとっての生涯をかけた仕事だなと感じています。このゴルフコースを設計したのはC・H・アリソンという人ですが、彼があの土地を見た時の興奮を想像するわけです。もう「ここだ!」っていう手応えがあったんじゃないでしょうかね。
藤田 それはどんな点なのですか?
宮本 まずは地形と方角ですよね。廣野は、当時としてはすごく人里離れた場所で、扇形のような不思議な地形です。高低差があり、風の流れもある。ドローンを飛ばして撮影をしたときに驚いたのですが、12番から14番までの地形が、ニューヨークのマンハッタンみたいな、イーストリバーとハドソンリバーに囲まれた半島のような形なんですよ。何年も通っていましたが、ドローンを飛ばすまでわからなかった。
藤田 でもゴルフ場を作る前は、そこはただの山なんですよね。その時点で「ここはすごい」ということがわかるものなんですね。アリソンにはそれが見えていたんでしょうか。
宮本 見えていたと思います。
藤田 日本美術にもありますね。雪舟の『天橋立図』という国宝の絵画があるのですが、あれは上空からしか見えない角度で、ちゃんと正確な描写になっているんだそうです。見える人というのがいるのでしょうね。
宮本 そうですね。北斎の『神奈川沖浪裏』なんて、シャッタースピードが1/2000秒くらいのハイスピードでしか見られないような光景だし、歌川広重が描く雨の線は、1/6秒くらいのスローシャッターみたいなものですよね。アリソンの場合は、鳥のような目をもって、廣野の自然に、単なる18ホールを並べただけではなく、物語を描いたんです。ホールを進むその道すがらのことを僕らはルーティンと呼んでいるのですが、そのルーティンが素晴らしんです。
藤田 それは日本庭園にも通じることかもしれませんね。ここで少し止まってこっちを見るように、などと人を誘導する仕掛けがあります。宮本さんのようにゴルフコースの歴史や背景を調べていくと、だんだん設計者としての目線で見るようになってくるものでしょうか。
宮本 僕は1931年にこの廣野ゴルフ倶楽部を設計したアリソンには実際に会ったことがありませんが、コースをくまなく歩いていると、「ここだけ木が植えられずに空いているのは、風を通したかったからかもしれない」とか「この方向から風が吹いているから、この木がこんな形に育つことを分かっていたんだな」とか、間違っているかもしれないけれど、アリソンはこう思ったんじゃないかと想像しながら歩くんですよね。五感で感じるだけでなく、いわゆるシックスセンスで感じるというか。
藤田 そこは本当に美術品と同じですよね。それがたとえば千利休所持のものだったとすると、「利休はこのお茶碗のここを見てテンション上がったんだろうなー」なんて想像している時間がいちばん楽しいです。
宮本 まさにそれ。他の人から見たらあの人大丈夫かな、って思われるかもしれないけれど。
藤田 マスターズの中継を見ていると、オーガスタって18番ホールが終わったときに、振り返った映像が入るじゃないですか。私は行ったこともないのに、なぜか涙が出そうになります。
宮本 これまでのスコアとか、自分が歩いて来たところを振り返るというかね。いいゴルフコースは、ティーグラウンドからグリーンまで、平面的に一方向からだけ見るのではなくて、どこから見ても美しいんですよね。
藤田 お茶会もストーリーなので、設計者の思いを読み解きながらコースをまわることにとても近いのだろうと思います。お客様がいらっしゃって、最初に見る掛軸がこれで、その日のテーマのヒントが提示される。最初に正解をすべて見せると面白くないからちょっとだけ匂わせて。お客様が見る道具の順番で少しずつヒントを重ねていって、最後に「そうかもしれないけど、どうなんだろう?」と、絶対的な確信まで到達する一歩手前くらいのところで終わるのがいいと思っています。すぐに正解がわかってしまうと面白くないし、あまりにも答えが遠いと、それはそれで成り立たない。そんなことを考えながら準備しているときがいちばん面白いですね。そして、招いていただいたときは、それを読み解くのが楽しいです。
宮本 では今度、ぜひ廣野ゴルフ倶楽部に、アリソンの企みを読み解きに行きましょう。
藤田 ぜひご一緒したいです!
宮本 卓(みやもと たく)
1957年和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。1984年に独立し、フリーランスのゴルフフォトグラファーに。1987年より活動拠点を海外に移し、マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロなどのメジャートーナメントの取材を行う。とくにマスターズ・トーナメントの取材は連続34回を数え、世界最多。松山英樹が日本人初の優勝を勝ち取った姿をカメラに収めた。単にゴルフのゲームを追うだけでなく、光と影を巧みに利用し、プレーヤーの奥に潜む人間の心理を表現する。
藤田 清(ふじた きよし)
1978年藤田傳三郎から数えて5代目にあたる藤田家五男として神戸に生まれる。大学卒業後、2002年に藤田美術館へ。2013年に館長に就任。2022年の美術館リニューアルに向けて準備中。