藤田美術館
藤田美術館のコレクションは、明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と、息子の平太郎、徳次郎によって築かれました。大名旧家や寺社に伝えられてきた文化財の多くが、明治維新を機に、海外へ流出したり、国内で粗雑に扱われたりすることに傳三郎が危機感を覚えました。傳三郎は、実業家であると同時に、若い頃から両親に物数奇を戒められながらも、とうとうその性質を変えることができなかったほどの美術品愛好家でもありました。「この際、大いに美術品を蒐集し、かたわら国の宝の散逸を防ごう」と決意して蒐集に乗り出しました。美術品への想いは嗣子らがその志を受け継ぎ、「これらの国の宝は一個人の私有物として秘蔵するべきではない。広く世に公開し、同好の友とよろこびを分かち、また、その道の研究者のための資料として活用してほしい」と、1954年に藤田美術館を開館させました。
開館から2017年6月11日の一時閉館までの藤田美術館の建物は、明治から大正時代にかけて建てられた藤田家邸宅の蔵を改装し、展示室として再利用したものでした。邸宅のほとんどを焼失した 1945 年の大阪大空襲で幸いにも延焼を免れ、中に収められていた美術品を守り抜いた蔵でもありました。
新たな藤田美術館もまた、60 年あまり親しまれてきた “ 蔵の美術館 ” として、受け継いだ美術品を次世代へとつなぎたいと考えています。
藤田傳三郎について
幕末の天保12年(1841)長州(萩市)に生まれる。
明治初頭(30歳の頃)に大阪へ出て、軍靴製造、軍需品や人夫を調達する用達業、トンネルや橋梁、疎水工事に係る土木建築などの事業を興しました。
明治17年、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けて本格化した鉱山業が中核となり、事業の規模は更なる発展を遂げました。他にも、児島湾(岡山県)の干拓事業を手掛けたり、紡績・鉄道・電気・新聞など、近代化する日本の基盤となった事業に大きく関わり、大阪商法会議所(今の大阪商工会議所)の第二代会頭を務めるなど、大阪財界に大きな功績を残しています。
傳三郎は、若い頃から古美術への造詣が深く、特に茶道具に対する鑑識眼は卓越していたと云われます。能や茶道をはじめ、日本文化を好み、邸宅には能舞台や沢山の茶室を構え、これに興じていたようです。維新後の廃仏毀釈などの影響から、歴史的な仏教美術品の数多くが海外へ流出していることに憂慮し、これを阻止するために膨大な財を投じました。古美術品の収集は、亡くなる直前まで続けられたと伝わります。明治45年3月30日没(70歳)
予は当時この状態を見て思へらく、社会の秩序は、文物制度の整頓と相まって早晩一定すべく、その美術志向は国富の増進と共に崇高に赴くべし、さればこの際に於て、大いに美術品を蒐集し、傍ら国宝の散逸を防がば、他日の悔いを遺さざる事を得べしと、依って資を傾けてその蒐集に努めぬ 「藤田翁言行録」より
沿 革
1841(天保12) | …… | 藤田傳三郎、長州藩、萩の酒造家に生まれる |
1869(明治2) | …… |
払下げ軍需品を大阪で売って利を得る (リーガルコーポレーションの前身、日本製靴に統合) |
1877(明治10) | …… | 藤田傳三郎商社 設立 |
1878(明治11) | …… | 大阪商法会議所 設立発起 |
1883(明治16) | …… | 大阪紡績会社 設立 初代頭取就任(東洋紡の前身) |
1884(明治17) | …… | 小坂鉱山(秋田)の払い下げ 阪堺鉄道会社 設立(南海電気鉄道の前身) |
1885(明治18) | …… | 大阪商法会議所 第二代会頭に就任 太湖汽船会社 設立(琵琶湖汽船の前身) |
1886(明治19) | …… | 山陽鉄道会社 設立(JR山陽本線 神戸―姫路) |
1887(明治20) | …… | 日本土木会社 設立発起(大成建設の前身) |
1888(明治21) | …… | 大阪日報への支援(毎日新聞社) |
1893(明治26) | …… | 藤田組、合名会社藤田組へ改組 |
1899(明治32) | …… | 児島湾(岡山)の干拓工事着工 |
1911(明治44) | …… | 男爵を授かる |
1912(明治45) | …… | 藤田傳三郎 逝去 |
1951(昭和26) | …… | 財団法人藤田美術館 設立 |
1954(昭和29) | …… | 藤田美術館 開館 |
1956(昭和31) | …… | 登録博物館となる |
2013(平成25) | …… | 公益財団法人藤田美術館へ移行 |
2017(平成29) | …… | 施設建替工事のため 6月12日より長期休館 |
2021(令和3) | …… | 4月 施設の一部開放 |
2022(令和4) | …… | 4月1日オープン |
家 系 図